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トントントントン・・・トン、トントントントン・・・ 包丁がまな板を叩く音が規則正しく聴こえる。 一人用のベッドの上で、相馬可奈はいつものようにゆっくりと目を開けた。 開けた瞬間からもう頭ははっきりし出している。目が覚めた後のほんの少しのまどろみの時間というのは可奈には無い。いつもそうだ。いつも。だから二度寝というのも有り得ない。 1Kの小さな部屋に住んでいる可奈は一人暮らしである。ついでに言うと、今まで朝食を作る為にキッチンへ立ったことなどない。昼は平日は仕事なので社内食堂か外で食べるし、休日もどちらかというと一人かたまに会う友人らと外で食事をしていた。そこへ立つとするならばそれは夜のみに限られる。それでも、大抵買ってきたものばかり食べるので、お湯を沸かすかレンジを使うかのどちらかになる。 一人暮らしを始める際に親や友人から貰った炊飯器やフライパン、鍋、皿はあまり使われずに放っておかれていた。 ―――“彼”が来るまでは。 「・・・・・・・・・」 無言のまま布団から足を出し、それを床に付けて可奈は立ち上がる。 まな板を叩く音は止んでいた。ドアを一つ開ければもうすぐそこはキッチンで玄関だ。 可奈はかちゃりと、それらへ続くドアを開けた。 「おはよう」 「・・・・・・・・・」 キッチンには男が立っていた。持参したエプロンを着て、味噌汁の味見をしているところだった。最近では見慣れてしまった光景といえども可奈は溜息をつかずにはいられない。 何せ彼は、今日もまたれっきとした“不法侵入者”であるのだから。 男の名は双馬祭。苗字の読みは可奈と同じである。 可奈の大学の頃の一つ上の先輩であり、そして今は、同じ会社の社員でもある。彼は企画部、可奈は営業事務と部署は違うが。 同じ大学の同じサークルの先輩後輩という仲、そして、同じ会社に勤める社員同士という仲、更にもう一つ、これに二人の関係を付け加えるのならば、 「先輩、お願いですから勝手に合鍵作って部屋に入るのやめて下さい」 「お前が俺と一緒に住んでくれるって言うならやめるけど」 「またどっかに盗聴器なんか仕掛けてないですよね?」 「うん、新しいのに替えておいた」 「誰がそんなことしろって言った〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」 ストーカーとその被害者、という仲である。 コトの起こりは、・・・可奈には実はよく判っていなかったが、少なくとも大学生の頃ということだけは確かだ。 まだ可奈も祭も大学生の頃―――雨の日の道端で、人に踏まれそうになっていたカタツムリを可奈が助けてあげた時から、・・・と、彼はそんなことを初め言っていた。それが、彼が可奈を好きになったキッカケらしい。 そんなことしたことあったっけ?と、可奈は未だにそのことを思い出せずにいる。とってもどうでもよさそうなことだったので、やったとしてもそんなこと記憶に残っている筈がなかった。カタツムリを助けてあげただなんて、足元の蟻の行列を踏まずに歩いたぐらい些細なことである。そんなことをいちいち覚えている人間がいるだろうか? そして、そんなことをしたからってどうして私は彼に惚れられたのかと、それを言われた、それを告白されたその日から、ストーカーされるハメになった今現在に至っても、その理由が可奈には判らずにいる。 第一、本当にからかわれているとしか思えないのだ。 彼は彼の最後の大学祭で出店したホスト喫茶などというもので、大量の女性客を一人で集めたそんなツワモノ容姿の持ち主なのである。つまり女にモテる。なのに男受けもいいのである。 “やっかみなど体力の無駄である” 彼の周りの友人はそう悟った者達ばかりだった。 『それに、なぁ・・・』 ホスト喫茶の裏の方で、注文されたケーキとお茶を可奈が用意していた時、他の先輩がぽつりと可奈を見ながら呟いたことがある。 『アイツの好きなヤツ聞いたら、なんか、あんな顔してくるクセに女の趣味は変なんだなぁって思うんだよな』 だからどんなに女にモテている姿を見ても、彼を羨ましいと思うよりも言い寄る女性の方に同情してしまうらしい。 その時の可奈には、その先輩の言っている意味は判らなかった。 『ホントになんであんなにキレイなおねーさんやら可愛いコやらを断って、なぁー』 と、じろじろこちらを見るのは気になっていたが、その、彼が好きな人間というのがまさか自分のことであるとは、その時の可奈には想像だに出来なかったのである。 相手は日本人のくせにすらりとした長身と、日本人らしくさらりとした黒髪の持ち主で、その年の学園祭での獲得指名数凡そええっとそういえばどのくらいだっけと思い出すのも苦労するぐらい女に言い寄られる男である。ホスト喫茶なんかしなくても、勿論。 対して可奈の方はといえば身長も低くすとーんとした体型にぴょんぴょんハネたクセっ毛の21歳だった。男友達は居たがそれまでだった。キスもセックスも経験済みではあるが数えるのは片手の指で足りるぐらいである。 そんな彼女に、そんな彼が、「カタツムリを助けたから」という理由で好きになったのだと、一体誰が信じられるだろう。からかわれていると誰だって思う。自分の容姿に自信のある者ならもしかすると違う風に思うのかもしれなかったが、少なくとも可奈はその言葉が信じられなかった。からかっているのだ、先輩は、と思った。 そのカタツムリ告白が今から1年と三ヶ月前。その告白後すぐに彼は卒業してしまって、それから可奈が彼、双馬祭と会うことはなかった。もう会うことはないだろうと、可奈もそう思っていた。 「あった・・・」 ストーカー被害に遭うようになって買った盗聴器発見器が、テレビの裏側を向いてピーピーと鳴っている。 そっと手を伸ばし、指で摘んでつんと突付くと、それはそれはもう簡単にぽろりと外れた。発見器を使わなくとも、いつかは自然に剥がれて落ちてしまっていただろう。 「じゃあ朝ご飯にしようか」 仕掛けた本人がキッチンから部屋に入ってきて、壁側にある小さなテーブルに朝食を置く。 ほかっと炊けた白いご飯に豆腐の味噌汁。ピンク色の薄塩鮭に黄色い厚焼き玉子が二切れ。人参と牛蒡のゴマ和えと漬物。 「朝ご飯にしよう、じゃ、ありませんって!勝手に部屋に入ってきては盗聴器仕掛けたり私のモノ勝手に持っていったりとか何度やめてくださいって言ったらやめてくれるんですか!!」 「仕掛けるのは一個だけだし、持っていくのも一個だけだろ?盗聴器はすぐに見つかる物にしてるし、持っていったのは会社でちゃんと返してるじゃないか」 「それがどんだけ私のやっかみ被害を増やしているかわかってるんですか先輩はっ!絶対わかってないっ!事務の先輩なんかあんまり口きいてくんないんですよ?!仲良くしてくれるのは同期のコ一人だけで・・・というかなんか会社中のオンナノコを敵に回してるみたいで嫌なんです・・・!」 実際にはそういうことはなく、所謂お局様と呼ばれるような世代は可奈に優しくしてくれる。彼女らにはもう既に人生の伴侶が居る為か、そうでないにしても、祭のようなタイプには他の(彼女らにしてみれば)“低年齢な”女性社員が抱くような感情は芽生えないらしい。 いくら顔が良く仕事も出来るからと言っても、話し掛けられて顔を赤くしたりなどしない。まぁ嬉しいけどね、とは言っていたけれど、公私混同するなんてことは絶対しないから、と、きちんと判らないことは教えてくれるし、やれる仕事を回してくれる。 それにもうすぐ入社三ヶ月目になる。大分仕事にも慣れてそういった先輩の手を煩わせることも減ったし、企画部で次々新しい製品の企画を出してしかもそれが次々売れてしまうという頭良し顔良し懐良しな双馬祭が、営業事務のぽてーんとした特になんの取り得もない相馬可奈と仲がいいというのも、特に珍しいことでもなんでもなくなった。大学時代の先輩と後輩ならばそれだけの関係なのだろうと思う人間も増えた。職場でも可奈が祭のことを「先輩」呼びしているのも功を奏した。けれどもまだまだ、可奈に対するやっかみは無くならないのである。少なくとも、彼がいちいち職場で顔を合わせる度に「今夜はウチで食事でもしないか」と誘ってこなくなるまではきっと無くならない。 「可奈、最近体調良くなってきただろ。ちゃんと食物繊維摂らないと駄目だぞ」 「あ、はい、先輩のご飯のお陰で便秘かいしょ・・・ってだからそうじゃなくてええええ!!!」 ダンッ!と可奈は朝食の乗ったテーブルを拳で叩いた。ガチャン、と少しだけ食器が飛び跳ねる。さっさと席についていた祭は肩を竦めた。 「確かに毎朝美味しい朝ご飯のお陰で体の調子は抜群にいいですけど!だからって毎回勝手にカギ開けて家に入って盗聴器仕掛けて物を盗んでウチのゴミを捨てて近所の奥さんに挨拶するっていうのは犯罪なんですよ先輩!!」 後者はともかく前者はしっかりとした犯罪行為である。しかし祭は大して悪びれた様子もなくカチカチと携帯を弄っていた。無視、である。 「せんっ・・・」 「早く食べないと冷めるしし出社時間に遅れる」 「あのっ・・・」 「味噌汁、好きだろう?」 「・・・・・・っ・・・」 ふんわり。 優しく漂ってくる味噌汁の香りに、可奈はつと目を閉じ、それから椅子を引いて座った。 「・・・・・・いただきます」 「俺と一緒に住んでくれれば、ちゃんと毎朝味噌汁作ってあげられるんだけど」 「くぇっこうです!」 可奈が荒々しく茶碗を置くと、また他の食器達がガチャンと一騒ぎした。 四日に一回だけでも多いと思うのに。 カギはともかく、いつもチェーンを掛けているのに、どうして彼はいとも容易くこの部屋に侵入出来てしまうのか。 チェーンは勿論切られたりなどはしていない。 可奈はチェーンの必要性に首を傾げてしまうのだった。 「じゃあ俺は先に行くから」 玄関の方で声を掛けられ、洗面所へ引っ込んでいた可奈は顔だけ出して「ふぁい」と言った。口には歯ブラシが突っ込まれている。 同じ会社への同じ道程を、時間を変えて可奈はスクーターで、祭は近くの契約駐車場に停めてある車で向かう。 渋滞に巻き込まれる祭は早くに出て、可奈はそれから少ししてからスクーターの置いてある下の駐車場へ下りるのだ。 祭は何度か自分の車で送っていくと言ってくれるのだが、そんなことをされた日には会社の女性社員達から何を言われるか判ったものではない。だから丁重に、・・・でなく、出来るだけ迷惑そうに断ってやる。朝食を作ってくれることも、本当は迷惑だしそう言ってはいるのだが、ついつい美味しくて完食してしまう為に説得力が無い。 教えてもいない筈の自宅の住所をいつの間にか突き止めて、勝手にカギを作って不法侵入。そして窃盗・盗聴。これらはれっきとした犯罪であるが、可奈にはそのことで警察に駆け込むつもりはなかった。迷惑ではあるのだが、いかんせん相手が大学時代の先輩であり、やってることもまぁまぁ些細なことではある。 盗聴器は聊かやり過ぎのような気もするが、市販のオモチャのような発見器で見つけられるチンケな代物で、前なんかテーブルの上にちょこんと乗っかっているのを見つけた時には思わず脱力してしまった。私生活を盗聴したいというよりも、この部屋に入ったという印をわざと残されている感じだ。 よくある無言電話、というのは今のところされてはいない。携帯番号もアドレスもやっぱり向こうに知れてしまってはいたのだが、電話をされてもメールをされても世間話か大学時代の話とかで終わってしまうことが多かった。一度仕事の話をされたこともあったが、それっきりだ。 強引に何かをされた、ということもない。向こうが一方的に可奈に構ってくるのだが、今のところ目に見えた被害は・・・無い、と思われる。会社でのイヤガラセも少しは落ち着いたし、そこでの友人も一人だがちゃんと居るし、頼りになる先輩も居る。流石に「先輩がストーカーで困ってるんです」とは相談出来ないが。 『・・・俺のこと、好きになれない?』 カタツムリ告白の日。 その日は雨が降っていた。突然の雨。でも傘を差すほどのものでもない、小雨。 その中で、黒い髪を濡らして頬から雫を落とす祭に、可奈は心臓が口から飛び出てそのままカエルになってぴょんぴょんどっかに行ってしまうんじゃないかってぐらい胸を高鳴らせていた。 告白のことは冗談だと思っていた。 ただ、雨に濡れた祭があまりにも色っぽ過ぎてドキドキしていたのだった。 『ご、ごめんなさい・・・っ』 ずいと近付いてきた祭に、耐え切れず可奈はその体を突き飛ばして逃げた。 あれ以上寄られていたらきっと爆発していただろう。その場でひっくり返ったかもしれない。 今頃“びっくりカメラ”の看板を持った誰かが草むらから飛び出しているかもしれないと、ばしゃばしゃ雨の中を走りながら可奈はそう思っていた。 そんなこと、全く全然無かったというのに、濡れた先輩を見て顔を赤くした自分が恥ずかしくて、寮に逃げ帰った後冷水に頭を突っ込んで翌日風邪をひいた。 洗面器に溜めた水を見下ろし、現在の可奈は、その時の自分の顔を思い出していた。 「本気・・・なわけ、ない。絶対違う。今でも絶対、どっかでカメラが回ってるんだ」 今でも二人きりになる度に言われる「好きだ」という言葉。 その言葉に頷いて、自分も、と言った瞬間に、どこかからかいきなり大勢の人間が現れて、「これはびっくりカメラでした!」と言って笑うのだ。そして先輩も一緒になって笑うのだ。 可奈はすぽんと栓を抜いて、ぐしゃぐしゃになっていく自分の顔をすっかり流してしまった。 今度は自分の方が会社へ行く時間が迫っていた。 NEXT |